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Modylasの開発者・安藤さんに聞く

アプリケーション開発の最前線から

1000万個もの原子の動きを一度に計算できるソフトウェア「Modylas」が誕生しつつある。Modylasを使って何を明らかにできるのか、またどんなことに応用可能なのか、開発プロジェクトで中心的な役割を担う名古屋大学岡崎進研究室所属の安藤嘉倫さんに話を聞いた。

 

Modylas安藤

 

「Modylasとはどんなソフト?」

Modylas( モジラス)。親しみを感じるネーミングだ。その由来をまず聞いてみた。「MOlecular DYnamics simulation software for LArge Systemから名づけられました。文字通り、大規模な分子動力学シミュレーションを行うことができるソフトウェアです」
分子動力学(MD)計算では、分子集団(系)を構成する全原子の座標および原子間相互作用を記述するさまざまな力場パラメータを入力としてニュートン方程式を数値的に解き、系の構造や変化(ダイナミクス)を解析する。原子間相互作用の計算には膨大な計算量が必要になるので、コンピュータの進歩と並行して扱える系の規模を広げてきた。しかし、現存のスーパーコンピュータが扱うことができる系の規模は数十~数百万原子である(図1)。
安藤さんは分子動力学の専門家だ。コンピュータ科学にも明るく、プログラミングを書くスキルも持ち合わせていたとはいえ、高度化したスーパーコンピュータ向けのソフトウェア開発は容易ではなかった。
「“京”は8万台以上の計算ノードから構成される複雑なコンピュータです。“京”の能力を最大限に引き出すには、通信の回数を減らして効率よく演算するアルゴリズムを構築することが鍵となります。Modylasの開発ではコンピュータ科学の専門家しかわからないような高度な技術もたびたび求められました。これまで、重要な部分についてはソフトウェア開発の技術者(富士通)との共同研究で進めてきましたが、共同研究を円滑に進めるにはわれわれもコンピュータのことを良く知っていないといけないし、コンピュータ科学は新しい専門用語が次々と生まれている分野なので、言葉が通じない苦労もありました」最大の難問は、原子間に働く力の一つであるクーロン力(静電気力)をどのように効率よく MD 計算に組み込むか、だった。クーロン力は人間が感じるほど遠くまで作用する力だ。このクーロン力は原子レベルのミクロの世界でも現象を支配していると考えられているので、当然シミュレーションでも正確に記述しなければならない。 「これまでのスパコンでは、クーロン力の計算にParticle-Mesh Ewald method(PME法)が使われてきました。これは高速フーリエ変換(FFT)を利用した近似計算法で、精度は十分良いのですが、計算ノード数が増えるにつれFFTに起因するノード間の通信量が膨大になり、計算効率が低下するという難点がありました。計算ノード数が8万を越える“京”では、PME法に代わるより効率的なクーロン力の計算方法が必要になります。そこで、われわれは、高速多極子法(Fast Multipole Method:FMM)にもとづくクーロン力計算プログラムを新たに開発することにしました。FMMは、近くの粒子からの力は厳密に、より遠くの粒子からの寄与はひとまとめに扱うことにより、高い精度を保ちながら、高速なシミュレーションを実現するアルゴリズムです(図2)。しかしながら、PME法と比べプログラムの構造がはるかに複雑となるため、これまで実際のソフトウェアではほとんど使われてきませんでした。数万ノードから構成されるスパコン上での稼働を前提にソフトウェアに実装した例はわれわれが初めてです」と安藤さん。FMMの実装は、今ではModylasの一番の売りとなっている。

 

MD計算の対象系の例

図1. 分子動力学計算(MD)法が対象とする系の大きさとその時間スケール
コンピュータとアルゴリズムの進歩に伴って、計算規模が広がってきた。最初のMDが
試みられたのは1957年、わずか100原子規模。

 

「Modylasで何がわかるのか?」

Modylasを使うと、どのようなシミュレーションができるのだろうか。現在のスパコンでは500年もかかり、実現できないといわれてきた1000万個の原子からなる系の分子動力学計算が可能になる。ウイルスに代表される生体高分子集合体の構造安定性の起源は科学として大いに興味をもたれるテーマの一つだ。高効率なMD計算ソフトウェアは、タンパク質の構造予測、細胞膜の構造変化といったナノスケールでの研究に幅広く役立つ。
きれいな映像がシミュレーションで見られることも、この研究の魅力だという安藤さん。実際、私が当日見せていただいた映像からも、1000万個の原子からなるウイルスの分子は面白い構造であることがすぐに見て取れた。カプシドと呼ばれるタンパク質でできたウイルスの殻は、タンパク質の同じパーツ同士が塊になってある模様を形作っている。
「“京”スパコン上で計算することで、周りの水分子を構成する原子からウイルスを構成する原子まで、約1000万個のすべての原子の挙動を追うことができます。これまでは、ウイルスがなぜこういう構造をとることで安定化するのか、科学的によくわかっていませんでした。スパコンでのシミュレーションから、原子レベルでその謎を解明したいと思っています」

 

 

FMMによるクーロン相互作用の計算

図2. FMMによるクーロン相互作用の計算
近くの粒子との相互作用は厳密に計算する。より遠くの粒子からの寄与はひとまとまりにして多
極子として表現する。さらに遠くはより広い範囲をひとまとまりにする階層性を導入することによ
り、計算精度を落とすことなく、計算を高速化することが可能となる。

 

「何に応用できる?」

Modylas の創薬分野への応用が注目されている。ウイルスの細胞への感染やウイルスと免疫機構との応答の分子メカニズムを実験によって明らかにするのは難しい。それに代わる新しい手法として期待されるのが全原子MDシミュレーションだ。
「ウイルスと受容体(レセプター)との相互作用を自由エネルギーとして定量化することで、ウイルスが人間の体内でなぜ特定の受容体にのみくっつくのか? その理由が分子レベルから明らかになります。そこで、ウイルスがくっつく前に、ウイルス側の接合部に似た構造の違う分子が受容体にくっつくようにすれば、ウイルスが細胞内に侵入するのを阻害できます。ウイルス構造の理解は、こうしたウイルスをブロックする薬の開発にもつながるのです」
「また、ベシクルという細胞内の物質輸送担体を利用したドラッグデリバリーシステム(DDS)の開発にも貢献できるのではないかと期待されています。ベシクルは水相を脂質二重膜が包み込んだ袋状の構造体で、その内部もしくは脂質二重膜に薬を注入し、薬を体内の目的の患部まで効率よく届けようとするものです。このDDS開発研究では、ベシクルを構成する脂質膜と内包する薬剤との相互作用、 およびベシクルと膜融合対象である細胞膜との相互作用といった基礎的な事項が依然よくわかっておらず、MDシミュレーションによる新しい知見が求められています」
現状では, 泡や宇宙空間での星の形成といったスカスカな系は計算の効率が悪くModylasにはあまり向かないそうだ。水と目的のタンパク質を入れて計算するウイルスのシミュレーションのように、物質で充満したほぼ均質な密度をもつ系の計算を得意とするModylas。アイデアがあれば生体分子に関わらずさまざまな対象に使ってほしいと安藤さんは語っている。

 

「日本独自のソフトウェアで世界をリードしたい」

安藤さんのように、物理や化学の基礎知識に合わせてプログラミングの技術を持ち合わせた研究者は少ない。
「今は、MDコードのプログラミングと研究とを両立させている分子動力学分野の研究者はマイノリティですが、理想的にはマジョリティになってほしいと思っています」
また、日本でのソフトウェア開発には、本質となる知識を次世代に伝えていく意味もある。
「現在、日本の分子動力学のコミュニティには、誰もが使え、かつ世界と比肩できるほど高効率に計算できるソフトウェアが存在しません。一方で、アメリカやヨーロッパ諸国では20年ほど前からソフトウェアの開発はコンピュータ科学や物理学などいろんな分野の専門家が集まって開発する共同研究として進んでおり、組織力の面で日本はかなり遅れをとっています。もちろん、アメリカのソフトウェアを輸入して使うこともできますが、それではソフトを使うだけになってしまい、その根本の原理がどうなっているのかという科学の本質の部分が世代を経るうちに次第にわからなくなってしまうという恐れがあります。どの分野にも言えることだとは思いますが、こうした知識の空洞化が起らないように、日本独自で一から最新のソフトウェアを作り上げることは重要なのです」これから、分子動力学を含むいろいろな分野の専門知識をもった研究者を集め、「京」でのModylas最終チューニングが始まる。分野を異にする専門家が集まることで、ソフトウェアのパーツごとの計算速度は確実に速くなるだろう。その中で、安藤さんはModylasプロジェクトのキャプテンを務め、全体性能の最適化を図る。
「これまで、分野による言葉の違いも密にコミュニケーションを図ることで解決していきました。今後もお互いが協力しあい、プロジェクトを成功させたいと思います」
目標は世界のトップレベルに立つことだ。

 

【インタビュアーから見た安藤さん像】

東日本大震災が起った3月11日の午後5時。「このような非常事態で特に久保田様の名古屋への移動はむずかしいと思われます。よって明日の取材の日程を延期すべきかと思います」安藤さんは関係者へメールで呼びかけた。これを受けて、12日に予定されていた取材は延期された。
この心配りには安藤さんの人柄が反映されているようだ。研究面での活躍は言うまでもないが、共同研究者への気配りや後輩の面倒見の良さも折り紙つきだと言う。「京」でのシミュレーションでは、自ら先頭に立ってソフトウェア開発を進めるだけではなく、専門家の間のコミュニケーションを取り持つ重要な役割が期待されている。安藤さん自身も「Modylasプロジェクトチームにおけるキャプテン」だと自覚している。