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特集 計算物質科学の「見える化」

《part-1》  「見える化」へ向けて

p02-top次世代の電子デバイスや薬剤、エネルギー変換物質の開発など、CMSIのすすめる物質科学の研究は、社会からも大いに期待されています。一方で、物性を決めている電子や分子は目に見えず、それらの振る舞いを大規模計算で明らかにしようとする計算物質科学は「わかりにくい」と敬遠されがちです。どのように伝えれば、期待を興味に変えることができるのか? CMSIと豊橋技術科学大学(TUT)との共催で2013年3月に開催された第1回「見える化」シンポジウムでの議論や提案を踏まえ、計算物質科学の「見える化」の道を探ります。

CMSIが力を入れている「人の見える化」
科学の「見える化」は「広報」の一環と考えることができます。一般社会への発信が謳われることは当然ですが、CMSIではそのほかにも重視している対象があります。研究の入り口や出口に位置する理論家、実験家、他の分野の研究者、企業、そして人材の入り口や出口に位置する学部学生や中高校生、企業や研究所の採用担当者などです。
広報活動で「何を」見せるかというと、まず第一には計算物質科学の成果です。それらは通常、論文や講演、特許として発表されますが、一般社会や中高校生向けには、研究成果だけではなく、計算物質科学の面白さや、研究者の思い、どんなことに興味をもって、なぜその研究を行っているかを伝える必要があるでしょう。また、CMSIで開発されたアプリケーションソフトウェア、あるいは並列化や最適化の過程で蓄積されてきた経験や情報もCMSIの重要な資産です。これを公開して分野の内外に普及させることも広報の役割になります。最後に、CMSI内で研究・開発に携わっている若手研究員など、「人」そのものの広報活動がキャリアパスの創出や分野振興のために不可欠です。
CMSIは現在、さまざまな活動に力を入れています。第1は、「拠点研究員」という制度を設けたことです(Torrent No.3 特集)。CMSIは、全国14の拠点をはじめ、さまざまな機関が参加するネットワーク型のコミュニティです。このような組織では、各所で蓄積される経験や情報、知識を集約して分野の共有財産とし、それを分野内に普及させていく機能が必要になります。これをミッションとするのが拠点研究員です。大学院の学生や若手研究員のための教育活動についても、配信講義など新しい取り組みを開始しています(本特集ART2)。
第2は、この広報誌のTorrentです。Torrentでは、CMSIの研究成果、アプリケーション開発、教育活動などの大きなテーマを特集してきました。これらの記事には、若手の研究者やアプリケーションの開発者、教員、学生などが、執筆やインタビューを通して登場することで、研究成果だけでなく「人の見える化」も進めています。Torrentのコンセプトは、まず手に取ってもらうことです。そのために紙媒体にして、表紙のデザインをカラフルで明るくしました。電子や分子のイメージがとかく冷たくなるためです。
アプリケーションの見える化もすすめています。アプリケーションの開発はこれまで研究として評価されないという側面があり、そのために開発者の顔も見えていませんでした。
CMSIでは、アプリケーションを公開すると同時に、開発者も積極的に紹介していきます。さらに、利用者である理論家、実験家、企業の人たちをつないでコミュニティを形成し、たがいに意見交換ができる仕組みMateriApps」を整備しています(本特集PART3)。

「正しく伝える」と「わかる」のか?

「見える化」シンポジウムでは、招待講演者から多くの提案がありました。伊藤智義さん(千葉大学大学院工学研究科教授)はホログラフィを使った3D映像の研究者です。人間の視覚は、静止画の画質には厳しくて粗さが気になりますが、動画には寛容で、コンテンツの面白さがあればいいことを説明し、動画による見える化を試みてはどうかと提案しました。しかし、可視化は一般向けには確かに効果的な手法ですが、専門家に対しては逆のこともあると指摘しています。わからないことを探究するのが科学の本質であり、見えないものほど探究心をそそられることがあるからです。
横山広美さん(東京大学大学院理学系研究科広報室副室長)は、「感動とは何か」を能の世阿弥の言葉「秘すれば花」を引用して紹介しました。さらに、「わかる」とはどのようなことかを整理して、何をわかってほしいと願って情報発信するか、情報発信をする研究者の側が設計する必要性を説明しました。多くの人にわかってもらいたいことは、全体像なのか、位置づけなのか、空間関係なのか、あるいは仕組みなのかを、時と場合によって選択することによって、伝える内容も絞られ、「なるほど」と納得してもらえるというわけです。
 「理解と感覚」という表題で講演を行った植松秀樹さん(NHK名古屋放送局ディレクター)は、感覚的にわかってもらうことをモットーにしています。そのためには、難しいことをやさしくするデフォルメが必要です。その例として、NHKハイビジョン特集『素数の魔力に囚われた人びと~リーマン予想・天才たちの150年の闘い』を紹介しました。難解な数学の世界をすべてわかってもらうのは不可能です。この番組の序盤では、数学者のオイラーが、雨が降っても風が吹いても素数の階段をひたすら昇っていきます。この階段は自然数の中に素数がどのくらい分布しているか(素数定理)を表した基本的なグラフをなぞらえたもので、オイラーが手作業で10万までの素数をすべて数えた苦労や情熱、そして素数の不規則な性質が伝わるのではないかということで取り入れた映像表現です。植松さんたちの思惑通り、このシーンは番組のキーイメージとして定着し、視聴者は素数のイメージをつかむことができました。、デフォルメは単に難しいことをやさしくするだけでなく、やさしいことに深みをあたえ、深いことを面白くすることにも役立ちます。デフォルメは「見える化」の大きな戦略になるのです。
科学を面白く伝えるには招待講演者全員が口をそろえて強調しているのは、科学のロマンや夢、面白さを伝えようということです。
科学の成果はいったん世に出てしまうと当たり前になってしまいますが、それが達成されるまでの歴史があります。それには熱い人間ドラマがあるはずです。また、伊藤さんもホログラフィを例にとって、量子力学を拓いたマックス・プランクから、電子顕微鏡の進歩に関った人たち、そして電子線ホログラフィを研究した外村彰に至るほぼ1世紀にわたる人物史をひも解きました。科学番組を制作している植松さんにとって、面白くすることはいわば生命線です。少しでもわからなかったり、難しかったりしたら、視聴者に見てもらえません。研究者への取材を重ねて、映像イメージを練り、物語を紡いでいきます。先ほどの素数の番組制作では、「先生、素数って、なぜそんなに大事なのですか?」と質問したところ、予想していた難しい答えではなく、「素数は身の回りのどこにでも存在する。見えないだけだ」と言われ、意表を突かれました。そこから、素数を砂漠で走らせたり、月の表面に投影するというシーンができたわけですが、このように研究者にとっては当たり前のことであっても、一般の人には不思議なことがたくさんあると指摘。CMSIの研究者に向けて、「自分の研究を身の回りのものにたとえてみてください。そして、それを周囲の人に話してみてリアクションをみてほしい」と提案しました。

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「可視化とシナリオで科学を面白く伝える」というテーマで講演された伊藤智義さん。
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横山広美さんは「見える化は決め手になるか~分野外からみた計算物質科学の強みは?」というテーマで講演された。
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「理解と感覚」というテーマで講演された植松秀樹さん。

研究成果を身近なものと感じてもらうには、「受信者の視点で語ることが大切」と、パネラーとして参加した辛木哲夫さん(理研AICS広報国際室長)。研究者は発信者として語りがちですが、一般の人は、自分の生活とどう関わるのかを知りたいからです。また、科学のロマンが伝わりにくいのは、日本の研究者が自分の研究を自慢しないからだと、植松さんは指摘します。外国の数学者からは、「素数は神の暗号だ」「これが解ければ人類は一歩前進するのだ」といったインパクトのある発言が飛び出してくるそうです。
次のステップに向けて昨今、研究者が自身の言葉で、自分の研究を語ることが求められるようになってきました。それには、まず研究者自身の意識改革が必要です。研究の情熱を人に伝えてわかってもらうことが面白いと認識することが重要であり、自分自身で見える化の方法を考えていかなければなりません。CMSIは今後、「見える化」シンポジウムでなされた提案をもとに、さまざまな活動を展開していきます。その成果は、第2回以降の「見える化」シンポジウムでも紹介していく予定です。